類は友を

先日太子堂で、お師匠様の奥様と、ほんの少しの時間世間話をした時のこと、

お師匠様が、若い頃、まだできたばかりの千葉の鍼灸学校を支えるために、解剖、生理、病理その他、そして鍼灸実技と、一手に引き受けて、というよりは、せざるをえない状況だったそうで、

「この人は、一体いつ寝てるのだろう。」と傍にいる奥様に思われるほど、勉強をされていたそうだ。

曲がりなりにも一応は、教員資格を持つ身からみたら、
正直あり得ない。想像にかたくない、とはよく言うが、お師匠様のは、想像したくない。領域に入り込んでいる。

以前学生から、こんな質問をされたことがあった。
「小林先生のことを皆とても気を遣って接しているけど、そんなに偉い先生なんですか?どういうとこが偉いんですか?」

私はこんな風に答えたと思う。
「鍼灸師という人生を送る人の中で、いったい何人の人が、理論と実際の鍼灸との完結された方法論を、その生涯の間に、完成させることができるだろうか?」

社会的な地位や今の立場などは、組織的生きものではない鍼灸師には、大した尺度たりえないのは、
勝手気儘な行動しかしない私を含め、我が会の同士達を見れば、言わずもがなである。

それよりも何よりも、借り物ではない、一つの体系を作り上げたことに、尊敬とはかり知れぬ畏怖の念を抱かざるを得ない。

さて、奥様はこうも言われた。
「あの人は、何も自分からは言わない。」

積聚会の先生方は、世渡りの下手な人が多いと思う。一番下手な私が言うのだから間違いない。

もっとも、世渡りがうまければ、端から積聚治療なんかしていないだろし、反対側に鍼灸してること自体、そんな生き方を象徴しているのかもしれない。

私は、とても、とても、いい先生なんて言われるような代物じゃあない。
どちらかと言えば、経より絡、縦縞というより、よこしまな人間だ。

それを隠すことができるくらい器用な人なら、今頃ビルのオーナーになってブランデーとか飲んでいる。我ながら想像が陳腐だと思うけど。

「この師匠に、この弟子ね。」

だから、ここは居心地がいいのだ。