基礎集中・臨床研修講座

今日は、長鍼の練習をしています。

積聚治療では刺激の強い鍼はしないように思われていますが、そんなことはありません。一般的に言われている刺激の質とは少し違いますが、見た目にも結構強刺激な治療をすることもあります。

さて、今日の質問は、気を出したり、入れたりする治療は、積聚治療ではどう考えるのですか、ということでした。

以前、積聚治療には、補瀉の区別がない、という話をしました。正確には、すべての治療が、精気の虚を補うものであるから、おこなう行為の違いはあるものの、補瀉を分ける必要がないのです。そう考えると、先の質問の答えも見えてきます。私達の治療の本来の目的は、精気の虚を補うことにあります。すなわち精気の虚が補われないかぎり、治癒することはない、と考えているのです。逆に言えば、症状なり病なりが解消したということは、精気の虚が補われたことを意味しています。例えばそれが、なすのへたであろうが、鰯の頭であろうが、病が治癒したということは、精気の虚が回復したということなのです。そうした観点から治療を見れば、道具や、手技の違いなどは、見かけ上の問題にしか過ぎないことがわかります。

要するにすべての治療行為が、精気の虚を補うものである、と言っていいのです。ただし、ここで言うすべての行為の結果、現象としての治癒に向かう方向性や、結果が伴わなければなりません。そうでなければ、精気の虚を補ったことにはならないからです。

当然のことですが、そうした方向性を見失った治療は、精気の虚を助長する害悪でしかありません。その上で各治療法の流派や理論は、方向性を確信するのに非常に重要であると言えます。

例えばそうした確信を得るまで、なんの蓄積もないところから始めようとすれば、数十年の歳月を必要とするのでしょう。けれども、すでに経験が蓄積されている理論を学べば、数年の修行で、それを得ることができます。そこにも私たちが師について学ぶ意味がでてきます。

私達の生命は見たいものだけを見る、という特徴があります。それは思考の違いであって、治療優劣を示すものではありません。少なくとも、積聚治療をうたっている治療者が、一概に他の治療や様々な可能性を、否定することはありません。それは積聚治療の理論とかけ離れたものになってしまうのと同時に、我が師の教えに背くことになるからです。

今日の基礎集中講座より