易をたてる

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☆一本道にございます。☆

人生は、迷ってばかりだ。治療もこうした方が良かった、ああした方が良かった、と悩みは尽きない。

どちらとも判断できないのは、どちらでも良いからという考えもある。結局のところどっちを選んでも後悔する可能性が高いから、悩むだけ損をした気分になってしまう。

けれども後から振り返ってみると、今こうなったのは、あの時のあれがあったからだったとか、言ってみれば、数多くの偶然が最善?のバランスで配置されていたからと気付くことが多いものだ。

そうした身の回りのほんの些細な出来事から遥かな永遠の空間の端まで、互いに関連しあい、私達が今そこに存在する事を、支えあっていると考えてみたら、どうだろう。

ところで、以前にも書いたが、私はお師匠様から、鍼も含め、ああしろ、こうしろと、ほとんど言われたことがない。聞けば、このほうがいいようだ。とは話してくれるのだが、

では、いったい何を私は学んでいるというのか?

結論から言えば、考え方、である。

初めて会った時から、お師匠様は、私の考えを方を揺さ振り続けている。

なんでこの人は、こんな風に考えるのだろう。とか、ここは、こうだよな、という定石は、存在しない、とか、

定石がないというのは、人によっては、不安なことこの上ないのであろうが、また別な人にとっては、面白いことこの上ない、ということにもなる。

私が後者であるのは、言うまでもないが。

さて、易の話しである。
私達は、創造主ではないので、先のことを知ることはできない。それが例えいくら現在の関係性の積み重ねだとしても、想像の及ぶところではない。

ところが、ただ一点だけ私達が創造主に最接近できる行為があるとしたらどうだろう。

そう、それが、偶然、である。

私達の意志の及ばない領域、正確に言えば、偶然を利用した時点で意志が及ぶのだが、

ともかく、できるだけ意志の入り込まない、偶然を導きだすその行為が、易占の所作となるのである。

偶然は、偶然でしか知り得ない。のだ。

そこに、固定した定石は、存在しない。しなやかで柔軟な思考のみが、その先を垣間見る唯一の道具となるのである。

文字は、あくまでも真実を伝えるための記号でしかない。その意味では数字と同じである。

易を理解するためには、易占は、不可避なのである。

もしも易の深奥を知りたいと望むなら、易をたてる必要がある。と思う。私が奥までたどり着いていないので、保障の限りではないが。

とにかく私達は、自らが行った行為の結果しか手にすることができない。

自然は、常に間違いを犯さないのである。
結果が得られないのは、入力の仕方が間違っていることに他ならない。

このようにして得られた結果すべてを陽といい、結果を作り出したすべての関係性を陰というのだ。

評価を得られないのは、治療法ではなく、自分のした行為である。

易はつねにそう告げている。

ちなみに、

私の講義は、すべて考え方を揺さ振ることを目的として構成してある。考え方と感情であろうか。憎しみでもなんでもいい、とにかく感情、感性に働きかけることにしている。
無関心で無感動で無感覚になっている人が多いからだ。まずはそこから入る。