基礎集中・臨床研修講座より

もう一つの治療に行く意味
今回は、治療に行く、ということを考えてみたいと思います。当然、治療院に行くのですから、治療を受ける、ということが目的になるわけですが、少し角度を変えてみると、もう一つの側面が見えてきます。それは、一言で言えば、顔を合わせて時間を共にする、ということです。
治療をするのですから、治療をする人と、される人が、会うのは、当たり前のことです。けれども、人に会う、という目的で、治療院へ行く方は、あまりいません。そんな中、治療のために会う、という意味の大きさを、あらためて、考えてみても、いいのではないでしょうか。
治療をするということは、ある一定の時間内、必ず、お互いに対面して、それこそ、手と手が触れることができる距離にいる、ということです。まあ、治療によっては、手が触れないということも、考えられますが、実際に会う、ということに関して言えば、どちらも違いはありません。
私たちは、一人一人が、皆、個性を持ち合わせ、また一人一人が、別の雰囲気を、かもし出しています。例えば、こわい先生が、教室に入れば、一気にピンと張り詰めた雰囲気に、クラス全体がなるでしょう。その様に、その時に、自分が焦点を当てている、人や物に、気持ちを合わせようとする能力を、私たちは、持ち合わせているのです。
こういう現象のことを、共感、と言ったり、また、共鳴している、と言ったりします。それは、まるで、自然な波のように、お互いを高め合ったり、打ち消し合ったり、しているように見えます。実際に会うこと、触れることにある、そんな側面を、無視することは、できません。
治療をすることは、もちろん大切なことです。でも、たとえ治療をしなくても、会いに行って、話をするだけでも、大きな意味があると、言ってもいいと思います。治療の最中も、ただ何気ない話をしている時でも、何度もお互いに共鳴しながら、波の高まりを作り出します。
ここに、もう一つの治療に行く意味、があるのでは、ないでしょうか。それを、いのちの波の高まり、と表現してみます。ある程度の年月、治療を続けてきた、結論的な意味合いから言えば、治療とは、そういうことなのではないかと、思うのです。