100%いい人も、またその逆も、通常、有り得ません。
少し前にも、陰陽のお話を書きましたが、今回は、少し違った角度から陰陽論を見てみたいと思います。もともと陰と陽の違いは、太陽の光が当っている側と、影になっている側ということですから、二つの別々なものについて、言っているわけではありません。
その上、お日様からの光ですから、時々刻々と照らされる面が変わってきます。そうです、陰と陽は、変化し続けるから、陰と陽の関係が成り立つのであって、変わらないものを、陰陽で表すことはできないのです。当たり前と言えば当たり前のことです。お日様に向かっている自分を半分に割るようなことですから。
つまり、自分のどこかに光を当てれば、どこかが暗くなるわけで、でもそれは、ごくごく当然のことであって、すべての人が、そうだと考えるわけです。そもそも、光の当たらない部分は、本人以外誰も見えません。だから陰であり、影の部分なのです。他人に見えた時点で、陰ではありませんから。
そこで見えているのは、その人の影ではなくて、そのさらに裏側にあるのが、その人の本当の影の部分です。そんなふうに、陰陽の関係性はできています。で、この関係性は、一人の私、そのものですから、両方ないといけないのです。そうです。これだけは、絶対の法則なので、ないといけないのです。
100%いい人も、またその逆も、通常、有り得ません。あえて通常と書きましたが、すべての人に出会ったわけではないので、一応、そうしておきます。とりあえず、陰陽論の考え方からすれば、どちらか一方だけというのは、生命としては、不自然なのです。
もしも、本当にそんな人がいたとしたら、それは、やはりこの世の人ではない、お化けなのかな、と思うしかありません。または、もしかしたら、人としての存在を超えて、近いうちに神様の仲間入りをすることになっている人、なのかも知れません。
一度だけ、そんな人のお世話をさせていただきましたが、すぐに別の世界に旅立っていかれました。残念ながらと言うか、幸いにもと言うか、その人以外、後にも先にも、その様な人に、出会ったことがありません。そして思いました。私には、とても手がとどかない、と。
さて、話を元に戻すと、私たちが、陽の当たる側しか見ない、つまり自分の立ち位置からしか、ものを見ないというのは、そもそも、相手を自分と同じ、人だとは思っていないということになります。そうなると、そんな人だとは、思わなかった。という言葉につながるのかも知れません。
また、さらに良くないことは、半分だけの人になろうと、努力することです。ブラックな自分も、ないといけないし、思い切りホワイトな自分もいないと、陰陽の調和が保てません。神様のもとに行く人が、そうなることはあるのかも知れませんが、ここからが大事、普通の人は、そう簡単に神様のところへ行けません。
それで、そんな人が、どこへ行くのかといえば、たった一つ病院という場所だけです。つまり、陰陽の調和が取れない、ということは、こころとからだのバランスを取れなくなる、ということと同じ意味なのです。人は、そんな風にできていません。この世界で、人として生きることが、一番大切なことなのです。
たとえ、あなたが神様のような人なのだとしても、人である限り、陰陽は調和しようとします。決して無理をしないでください。そんな自分も、あって当たり前なのです。ただし、どんな自分もあり、ですが、一応お巡りさんに逮捕されないことだけ、にしておいた方が、いいと思います。念のため。