気って見えるの?

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今日の講義から

赤本講読をしていると、普段の講義で話していることが、そっくりそのまま出てきます。

だんだん、自分の言葉なのか、お師匠様の言葉なのか、わからなくなってきた。

私は、すべてをお師匠様から学んだのだから、お師匠様の言葉なのは、間違いないのですが、

赤本を思い出したり、お師匠様の話を思い出して、話をしているわけではなく、

ただ、自分の中にある言葉を発しているだけなのです。

取り敢えず、そっくりそのまま受け入れて、真似てみる。

技を身に付ける極意なのだと言います。

さて、人の身体を細かく見ていっても、気、を見いだすことは、できないでしょう。

でも、その人が、気、だとすれば、今、確認できるすべてに、気、を見いだすことができます。

O田君をどんなに切り刻んでみても、そこに気を見つけることは、できないのです。物質の最小の構成要素ではない、からです。

このような、発想に基づいているかぎり、気、は、曖昧な抽象的概念とされて、
東洋的な治療と言うのにもかかわらず、理論の最終段階では、必ず破綻をきたしてしまうことになるのです。

何故そうなるのか。

最終的な構成要素としの、気、を誰も認知できないからなのです。

発想を変える必要があります。

肩が凝ってる、腹痛のO田君は、その存在そのまま全部が、気、そのものに他ならない。

ミクロで見ようと、マクロで見ようと、すべて同じ、O田君であるという、発想でないと、

気、という実体を表している生きた言葉に、到達できないのです。

まるごと、飲み込んでください。

これで、夏休みに入ります。また、9月にお会いしましょう。