弘法筆を選ばず

『ウィクショナリー日本語版(Wiktionary)』には、いくつかその意味が紹介されていますが、技量が優れていれば道具に左右されないの意。とあります。道具なんて何でもよいという意味ではもちろんないです。空海さんがその教えをなんらかに記すとき、その辺にある筆でその辺の紙の切れ端にテキトーに書くわけないもんね。むしろ道具に左右されない技量だからこそ、道具にこだわるはずです。偉大な文豪による名作も、国際的な条約のサインなども有名メーカーによる万年筆が用いられます。モンブラン、パーカー、カランダッシュ…ちなみに私も愛用しております。

私が実技指導をしている学生によく言うのですが、「細くて柔らかい銀鍼も、太くて長い中国鍼も両方扱える技量があり、でも自分はこちらの鍼を使用する」というのはかまわない。でも「銀鍼させないから、こっちの鍼を使用する」というのは駄目だよと。

道具の持ち味を最大限に引き出せるくらいの技量でないと、道具に対して失礼です。毫鍼のディスポ化が進み、最近は少し太めのステンレスの鍼を、切皮の爲だけに用いるプラスチックの鍼管で治療するのが普通になってきてます。また、それしか教えない学校も多いようです。鍼灸師は医療に従事する職人でないと駄目だと私は思います。職人にとってて己の技術と道具は何物にも代えられない宝です。

積聚会では鍼灸道具にこだわりを持っています。なんてったって会長がこだわっていますから。太子堂鍼灸院の治療ワゴンには、会長の長年の臨床経験から、こだわり考えられた道具が、常に整理整頓され置かれています。どのような道具が使用されているかは、『10巻』の後ろのほうで紹介されていますの確認してみて下さい。写真は、左から未使用のSJ毫鍼、SJ鍉鍼、灸点ペン、線香が金属の皿の上に並んでいるところです

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