もうすぐ基礎集中講座も終わりを迎えます。そこで、今日は、もう一度確認しておきたいことについて、お話しすることにしましょう。
私たちがこの世に誕生してくるためには、必ず両親の存在が必要です。これに異論を唱える人は、ごく少ないのではないかと思いますが、さて、その両親にもまた両親がいます。そうして延々と続いていきます。つい先日小林先生と計算したところによれば、100数十年遡っただけでも、ご先祖の数は、65000人以上になります。さらに遡れば、それこそ天文学的な数字になるでしょう。そう考えれば、人類はみな兄弟、というのもあながち嘘ではないことがわかります。話しはさらに、そこから先へ進みます。そして、ついに私の遺伝子は、全人類共有のものにまで遡り、際限なく広がりを見せると思われていたものは、やがてまた一つに集約されていきます。そして、たったひとつの素粒子の始まりにまでたどり着きます。ここまで来ると、勘のいい人は、もう結論がわかってしまったと思いますが、そうなのです、たった一つの素粒子も、この話の始まりの一人目の自分も、すべては同じものによって、支えられ形作られていることに気がつきます。この背後に働く存在の力、私たちが
表現するすべを持たない、この力こそが、私たちが目指す根元の力、本体なのです。ここでは、
根元の力などと、便宜的に表現していますが、実のところ、私たちは、この存在を表現する適当な言葉を持ち合わせていません。そのため過去から現代に至るまで、様々な立場の人が、様々な呼び名をつけてきました。それはある面では宗教的であり、またある面で最新科学であり、見る人により異なった呼ばれ方はしているものの、どうやら同じものを表現しているらしいこともわかってきました。ここで話しは易経に戻ります。さて、究極の陰陽の姿を表現する経典である易経では、この根元をどのように表現しているのでしょう。その答えは、表現しないことで表現するという、まさに究極の解答をしているのです。実際は、太極を表す横棒一つで、すべての陽が表現できることを利用して、その背後に対となる、陰にして表現できない絶対的な陰の存在を、見るものを通して意識させることにしてあるのです。陰陽論は、陰と陽の二元論ではないことはご存じの通りです。二つの要素が合わさって一つになるのではなく、元は一つのものが見方によって二つに分けることができると言うこと
ですから、陽が表現されているということは、間違いなく陰の存在を意図していることになるのです。
私たちの言う治療とは、この唯一の陰に働きかけることを目的としたものなのです。陰陽を分類して分類してと、どんどん進んでいっても、やがては一つになってしまいます。この事実は、大変重要です。たまたま、私たちは易経を学んでいたために、その事に気がつきました。また、たった一つから始まっているわけですから、分類が多くなるほど、根元から遠ざかっていくことになります。その上、陰陽が派生したどの時点からでも、また陰陽が派生していくので、見方を誤ってしまうと、自分の場所が出発点であると勘違いしかねません。常に視点を根元に置いておくことが重要なのです。普段の臨床で、ややもすれば、現象にのみ意識をとられてしまいがちですが、そんな中でも、変わらぬ信念が必要になってくるのです。
今日の基礎集中より