昨日の臨床講座から
先週の木曜日に、関東鍼灸専門学校で、お師匠様の特別講義がありました。毎回回を増すごとに、ギャラリーが増えて、今回は、満席に。昼間部の学生は、夜間部の講義にも潜り込んで、2度も講義を聴いていました。
また、先生も学生の熱意に答えてくださるかのように、非常に難関な、易と鍼灸の根幹に関わる話をされて、「易を勉強しているこの学校でしか、話せないからねえ。」と言われていました。
こんなすごい話に、学生の時から出会えるここの人たちは、なんて幸せなんだろう、と思いましたね。
さて、先生の話の後に、学生から質問があり、要約すると、「どのくらいしたら、先生のようになれるのか、いつごろから先生は、今の先生のようになったのか?」という問いに対して、その答えは、
「つい最近、それも10年位前から徐々に考えがまとまってきた。」というものでした。
つかんだ、と思っても、すぐにまた、わからなくなるものなんです。
お師匠様ですら、最近わかってきたそうなのですよ。
今の段階で、私たちがわかった、つかんだ、と思えるものは、明日の臨床の時には、変わってしまうものなのです。
厳しいことを言うようですが、そんなところで、立ち止まっていては、先には進めません。
自分が、できる、と思った時点で、技術者としては終わりだと言われます。できない、と思うから、常に探求していくのでないですか?
「この治療は、大きく言えば、人類のためのものである。」先生の言葉です。
私も、いつも治療しながら、教育しながら、何度も何度も、胸の中で復唱しています。
「これは、自分のためではない、人類のためのものだ。」
私の知人に、非常にマッサージの上手な方がいます。遠方からも沢山の人が、その手の技を求めて、治療に訪れるそうです。その方が言っておられました。
「技術を覚えるのは、並大抵ではなかった。蹴られて、罵声を浴びせられて、何度やめてしまえと言われたか、それでも、すがり付いて身につけた。」と。
誰も、当たり前に、必死です。当たり前に、努力してます。当たり前すぎて、誰も言わないだけです。
才能とか、センスとか、言っているうちは、まだ入り口にも立っていません。